防災のプロがまとめた大切な人を守るための「防災手帖」
SNSではつながりたいのに、近所付き合いは避ける不思議
脱「ダサい防災」、防災ガールが呼びかけ
災害時命救う「音」、政府も後押し
避難所にラジオ局 熊本・益城町臨時災害放送局
10カ国語のコミュニティFM、災害時に外国人救う
人形劇で、災害から命を守る「音」を啓蒙
social football、ボールで人と社会つなぐ
ベネッセ子ども基金、紙芝居で「防災」伝える
女性起業家、「防災を仕事にする」という生き方
「ダサイ」から「オシャレ」ヘ、新しい防災のカタチ
オシャレな防災は、ダメですか?
「本棚の安全な位置は?」:大手3社が子ども向け防災
神戸市、耐震化率向上へクリエイターらに呼びかけ
「大切な人のために防災」:中高生向け映画製作へ
大震災から23年、神戸で耐震をテーマに展示会
阪神・淡路大震災から23年目を迎える神戸で、1月16日から26日まで、安心・安全な住まいについての展示会「すまいとくらしの安全・安心 未来展」が開催される。地震などの自然災害などに備えた建築技術や知識、制度、耐震リノベーションの実例を紹介し、住まいの耐震化に関心を持ってもらうのが狙いだ。(オルタナS関西支局特派員=立藤 慶子)
展示会会場は、神戸市役所1号館2階市民ギャラリー。行政、研究機関、民間企業など11団体が参画し、安全な住まいをテーマに出展する。
展示内容は、世界最大の耐震実験施設、E-ディフェンス(兵庫耐震工学研究センター)が実施した木造・免震・大型建物の振動破壊実験映像や、耐震改修現場の様子を収録したオープンハウス疑似体験動画のほか、中古リノベーションの実例写真、工法の違いによる耐震性能を比べられる電動式耐震構造模型装置など、多数。
さらに阪神・淡路大震災の記念日である1月17日には、E-ディフェンスが作成した地震被害のVR(仮想現実)体験システムを、研究員の解説付きで体感できる(VR体験は13歳以上限定、体調不良時は不可)。
別会場となる神戸市役所4号館(危機管理センター)1階本部員会議室では、各専門家による連続セミナー・相談会も行う。
1月16日、クリエイティブユニット天満販売促進部によるトークイベントを皮切りに、17日は一級建築士・前田邦江氏による「命を守る一室耐震シェルター」、22日は積水ハウス総合住宅研究所・東田豊彦氏による「もしもに備える住まいと暮らし」、23日は神戸のリノベ会社G-FLAT代表・山野大祐氏による「リノベーションと耐震について」が予定されている(いずれも14時~16時半)。
セミナーの後には、神戸市すまいとまちの安心支援センター「すまいるネット」による住宅耐震化の説明・相談会も実施する。
神戸市では、平成28年度から「耐震で安心 TAIAN PROJECT」と銘打って、昭和56年(1981年)5月31日以前に建築された旧耐震基準住宅の耐震化促進のための普及啓発の取り組みを、事業者や地域住民、クリエイター、研究機関などと協働で実施している。同展示会はその一環で主催される。
詳細は、「耐震で安心 TAIAN PROJECT」fecebookページ
「鎮守の森」をヒントに、災害から命を守る森づくり
神社などの周りをこんもりと守るように植わっている「鎮守の森」。2011年3月11日に発生した東日本大震災では、津波でコンクリート堤防や松林がことごとく破壊される中、この森だけは津波から流されずに残りました。先人より伝わるこの森が、地域に豊かな恵みをもたらすだけでなく、災害時に「いのちを守る森」として、役立つ機能を担っていたのです。この「いのちを守る森」を後世へと伝えたい──。「鎮守の森」をモデルとした森づくりを行う団体を紹介します。(JAMMIN=山本 めぐみ)
■「鎮守の森」をモデルに44万本の苗木を植樹
公益財団法人「鎮守の森のプロジェクト」(東京)は、東日本大震災の翌年に活動を開始。「鎮守の森」をモデルにした自然災害に強い森づくりを各地で行っています。
「これまで、全国7箇所に447,901本の木を、50,456人のボランティアの方々と一緒に植樹してきました。小学校や幼稚園の周囲に作った小さな規模から、宮城県岩沼市沿岸部の約10キロにわたって30万本の木を植えた大規模なものもあります」
そう話すのは、「鎮守の森のプロジェクト」渉外の石森(いしもり)さん。活動開始から6年、一昨年からは活動の幅を東北から日本全国へと広げ、「災害からいのちを守る森」づくりを進めています。
■「鎮守の森」の威力
そもそも「鎮守の森」とは何なのでしょうか?そして、「鎮守の森」がどのようにして自然災害から私たちを守る役割を果たすのでしょうか?
日本各地のお寺や神社、古い屋敷などに残されている「鎮守の森」は、その土地本来のふるさとの木による森で、何百年も前からある森です。
日本の国土を多く占める森林ですが、自然の森はほとんど残っていないのだそうです。「鎮守の森のプロジェクト」の副理事長である植物生態学者の宮脇昭(みやわき・あきら)博士の調査によると、戦前、日本全国にはおよそ15万箇所以上の「鎮守の森」があったとされますが、現在その数は非常に少なくなってしまいました。
「鎮守の森」は、その土地本来の木で構成されていることから、地域の自然環境を改善すると同時に、根が深くしっかりと土地に張り巡らされ、台風や豪雨、津波でも簡単に倒れることがありません。
そして、この「鎮守の森」をモデルにした自然災害からいのちを守る森づくりの特徴について、石森さんは次のように教えてくれました。
「私たちの森づくりの特徴は、まず植樹する土地の植生調査をして、その土地に適した十数種類の常緑広葉樹(シイ・タブ・カシなど)を密植・混植し、互いに競争させながら森をつくります。十数種類の常緑広葉樹を植える森は、杉や松などの単植林に比べ『根が真っすぐ深く張る』『緑の表面積が多い』などの特長があります。これにより、台風や豪雨でも倒されにくく自然の土留め効果のある森となり、災害時に二次・三次の被害を防ぐことができます」
■森の構造に、津波に強い秘密があった
「各地の気候や環境によって『鎮守の森』を形成する木は異なるが、どの場所でも、様々な種類の高木、亜高木、低木、下草、また土の中のバクテリアやカビ、ミミズなどと関わり合いながら共生し、多層構造の森を形成しています」と石森さん。
東日本大震災では、海岸沿いの松が津波によって根こそぎ倒され、さらに内陸部に流れて家を破壊するなど二次災害を引き起こしました。しかし一方で、古くから自生する「鎮守の森」は、大きな津波に流されることなく、しっかりと生き残っていたのです。
「さらに、高木や低木など多層構造の森が壁となって津波のエネルギーを吸収し、威力を最小限に抑えると同時に、引き波の際に津波に流された家や車などの漂流物を受け止め、沖へと流れてしまうのを食い止めました。まさに、災害からいのちを守る森だったんです」
そのことを証明するある森がありました。宮城県多賀城市には、宮脇博士が中心となって「鎮守の森」をモデルに植樹した森がありました。東日本大震災の発生時、この森は植樹からたった7年。しかし、津波に負けずそこに残っていただけでなく、引き波がさらおうとした多くの物を受け止め、守ったのです。
■過去の災害では、火災からもいのちを守った
「鎮守の森」が人々のいのちを守ったのは、津波からだけではありません。1923年の関東大震災、また1995年の阪神淡路大震災の時にも、昔からその土地に自生した常緑広葉樹が水分を多く含んでいたために延焼を食い止め、火災から人々の命を守っていました。
「敷地の周りを常緑広葉樹の木で囲まれた場所にいた人たちは、延焼の被害を受けずに済みました。津波対策として沿岸部に植えるだけでなく、災害時に人々の避難先となる学校や、多くの人が集まる商業施設やオフィスビルの周辺に『鎮守の森』をモデルにした森をつくることで、新たなかたちで人と森が共生していけるのではないか」と石森さんは話します。
■「鎮守の森」はどのようにつくるのか
「鎮守の森」をつくるにあたっては、気候などの面も含め、その土地に昔から存在した、その土地に本来ある木であることが条件となります。
「まず現地で植生調査を行い、その土地に昔から存在した、その土地に本来ある樹種を選定し、現地でどんぐりを拾い、ポット苗に育ててから、混植・密植しています」と石森さん。
「30cmほどのポット苗は、根を切る必要もなくそのまま植えることができ、成木を植えるより、根づきやすいです。また、古くからある『鎮守の森』同様、いくつかの種類の高木や低木を一緒に植えることで、木々が競争し合って成長が加速します。こうして植えられた木々は、その地域に適した『いのちを守る森』へと成長し、20年で立派な森になります。こうして植えられた苗木は、植樹後3年間はメンテナンスが必要ですが、その後は長期的なメンテナンスも必要ありません。宮脇昭博士によると、自然の力で循環し、9,000年持続する森になると言っています。今後人口が減っていく中で、人手やコストのかからないエコな防災システムを後世に残していくことができるのです」
■そして、新たないのちをも育む場所へ
石森さんは、活動について次のように話してくれました。「『災害からいのちを守る森』を作る、ということが私たちの使命ですが『鎮守の森』がもたらすのは、防災の機能だけではありません。その地域本来の森は、もともとそこにいた在来の生物、鳥や昆虫、動物を呼び戻し、新たないのちを育みます。また、ミネラルを大地に与え、環境改善にもつながります」。
災害からいのちを守るだけでなく、さらに新たないのちを育む「鎮守の森」。日本のみならず、世界各国からも注目が集まっています。
■「鎮守の森」づくりを応援できるチャリティーキャンペーン
チャリティー専門ファッションブランド「JAMMIN」(京都)は「鎮守の森のプロジェクト」と1週間限定でキャンペーンを実施し、オリジナルのチャリティーアイテムを販売します。1アイテム購入につき700円が「鎮守の森のプロジェクト」へとチャリティーされ、苗木購入のための資金となります。
JAMMINがデザインしたTシャツに描かれているのは、近代的なビルと、もこもことした広葉樹がひしめき合う姿。現代に合ったかたちで、私たちの暮らしと森が隣り合わせで寄り添いながら共存していこうという思いを表現しました。チャリティーアイテムの販売期間は、3月5日〜3月11日までの1週間。JAMMINホームページから購入できます。
JAMMINの特集ページでは、「鎮守の森のプロジェクト」の活動について、より詳しいインタビューを掲載中!JAMMINのホームページよりご覧ください。
・「あの日学んだことを、この森に託したい」。「災害からいのちを守る森」をつくる〜鎮守の森のプロジェクト
山本 めぐみ(JAMMIN):
JAMMINの企画・ライティングを担当。JAMMINは「チャリティーをもっと身近に!」をテーマに、毎週NPO/NGOとコラボしたオリジナルのデザインTシャツを作って販売し、売り上げの一部をコラボ先団体へとチャリティーしています。
【JAMMIN】
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震災時に必要な支援を、障がい者への意識調査
東日本大震災から7年、熊本地震から2年を迎えるにあたり、障がい者約300人を対象に「防災に関するアンケート調査」が実施された。震災時には迅速な避難が求められ、場合によっては避難所での長期間にわたる生活が必要になる。しかし、障がい者にとっては、 こうした避難や避難所での生活が大きな課題になることも少なくない。今回の調査でも、過半数が避難時や避難所での生活において「障がいによる支障があると思う」と回答した。(オルタナS編集長=池田 真隆)
この調査を行ったのは、障がい者の就労支援などのソーシャルビジネスを展開するゼネラルパートナーズ(東京・中央)の調査・研究機関「障がい者総合研究所」。来る震災に備え、障がい者がどのような不安を感じ、どのような対策や支援を求めているのかを調査した。対象は、20~60代の身体・精神・知的障がい者271人。
「避難する際に、障がいによる支障はあるか」という問いには、55%があると回答した。また、「避難所で生活する際に、障がいによる支障はあるか」という問いには64%があると答えた。
■障がい者が有事の際に求めていることは?
災害時に自治体や周囲に支援してほしいことがあると回答した人は40%であった。具体的には、聴覚障がいや視覚障がいの人は情報保障、上下肢障がいの人は避難誘導の支援、内部障がいの人は病状に応じた対応などを求めている。精神障がい者は、避難所などで大勢の人と生活することの困難さへの理解や、パニック時の対応など心のケアを求める声があった。また、障がいの種別を問わず、薬の調達への要望が見られた。具体的には下記。
・避難所までの手引き、避難所内部の様子を教えてほしい。紙などで情報が配布された場合の代読をお願いしたい(男性/30代/視覚障がい)
・薬がなくなった場合の病院・調剤薬局への優先権がほしいです(女性/40代/心臓機能障がい)
・薬の手配や調達の手助けをしてほしいのと、大勢の人の中には居ることができないことを理解してもらいたい(男性/50代/うつ)
・災害時はパニックになってしまうので、恐怖や不安を感じやすいということを分かってほしい(女性/30代/統合失調症)
・ケースワーカーや民生委員による声掛けを日頃から行ってほしい。それにより、地域の関係者と日頃から人間関係を築ける(男性/30代/発達障がい)
こうした声を受け、同調査を実施した障がい者総合研究所 所長の中山伸大さんは、「個人が取り組める対策には限界がある。大震災に対する不安や困り事に対して、周囲が取り組めることを障がい者と共に考え、災害に備えることが必要」と述べた。
■ゼネラルパートナーズ社が行った防災に関する調査の結果はこちら
「東日本大震災から7年」障がいと災害、避難の課題
震災などの有事の際、障がいがある人はどのようなことに困るのか。実際に7年前の3月11日、東日本大震災で被災を経験した身体・発達障がい者4人に集まってもらい、当時のことを振り返ってもらった。そこから見えてきたのは、それぞれの障がいによって、困り事や支援してほしいことに違いがあるということ。震災が起きた時にどのように障がい者と関わればいいのか、当事者の声を元に考えてみよう。(オルタナS編集長=池田 真隆)
障がい者の就労支援などのソーシャルビジネスを展開するゼネラルパートナーズ(東京・中央)が行った「防災に関するアンケート調査」によれば、回答者の過半数が避難時や避難所での生活において「障がいによる支障がある」と答えた。
では、一体どのような支障があるのか。実際に東日本大震災で被災した経験を持つ当事者に当時のことを振り返ってもらった。
◆K.Wさん:趣味はスポーツ観戦。20歳前に筋ジストロフィー(ベッカー型)発症。37歳6か月で車イスの生活となる
――皆さんは東日本大震災で被災を経験されていますが、その当時のことを教えてもらえますか。
矢嶋:東日本大震災が起きたときは、都心の溜池山王にある職場で働いていました。オフィスビルにいたのですが、同僚の男性におんぶしてもらいながら階段を降り、都内にある自宅マンションまで送ってもらいました。ただ、マンションの6階が自宅なのですが、エレベーターが止まっていたため、再度おんぶしてもらい、自宅になんとかたどり着けました。
K.W:私も震災発生時は渋谷にある職場で働いていました。エレベーターが止まっていましたが、ビルの管理者に頼んで動かしてもらい、なんとか降りることはできました。
ですが、電車は止まっていたし、バスも人で溢れていて乗せてもらえないと判断し、家までの約10キロの道のりを電動車イスで帰りました。電動車イスのバッテリーが切れたら、そこでおしまいだったので、かなり不安でした。夜の9時ごろに自宅近くに戻ることができたのですが、自宅マンションのエレベーターが止まっていたため、自宅に戻ることは諦めて、近くの体育館に避難して一晩を過ごしました。
長谷:私は九段下にあるオフィスビルで働いていたのですが、会社から帰宅命令が出て早めに帰ることになりました。けれど、すでに電車は止まっていて、歩いて帰り始めました。日が落ちても歩き続けましたが、自宅までは遠く、一人だと不安なので、途中で杉並にある中学校の体育館に避難して、その日を過ごしました。
Y.M:ちょうど3月11日は、兄が住む岩手県の陸前高田市に着いた日でした。ぼくは兄とともに高台に逃げたのですが、津波により、兄のアパートは全壊。兄と一緒にいたことで本当に救われたと思います。3日ほどはライフラインが停止した状態で車の中や民宿で過ごし、4日目に東京へ帰るバスに乗って自宅へ戻れました。
――避難時にはどのようなことで困りましたか。
Y.M:当時はADHDと診断される前でしたが、あいまいな指示をもらうとどう動けばいいのか分からなくなってしまう特性が当時からありました。「高台に逃げて下さい」という警報が流れましたが、具体的にどれくらいの高さなのか分かりません。兄と一緒にいたのでよかったですが、もし一人だったら、どうなっていたことか。
長谷:私は、情報過多になってしまい、どの情報を信じていいのか分からず困りました。あと、私は独り言が多いので、その独特な言動や行動を見ていて、不快に感じてしまう人はいると思います。なので、プライバシー空間がない避難所は正直利用をためらいます。つい声が大きくなってしまうので、それがきっかけでトラブルに発展してしまうことがとても不安です。
K.W:私が感じたのは、電車やバスなどの公共交通機関が人であふれかえり、車イスユーザへの対応が難しくなってしまうということです。有事だから仕方がないかもしれませんが、車イスだと公共交通機関に乗ることを諦めざるを得ませんでした。
矢嶋:私は乳製品アレルギーがあるため、食品や水などは十分に備蓄していたので、特に飲食などに関しては問題がありませんでした。だた、先ほどお話したように、エレベーターが止まってしまい、いつ動くのか分からないことに不安を感じていました。
――お話をうかがっていると、避難時や避難所での生活において、それぞれに困られた場面や不安があったのだと感じました。こうした有事の際の困り事や支援の方法について、周囲に知ってもらうことも必要なのでしょうね。
長谷:そうですね。私は、困り事を抱えている障がい当事者同士だからこそ、助け合えることも多いと思っています。なので、もし震災時に、車イスで移動できずに困っている人がいたら、すぐに飛んでいってでも何かしたいです。
K.W:震災などの非常時には、人は、どうしても自分のことで精一杯になり、こころの余裕がなくなってしまいます。そうした中で、どうしたら障がいある人が、後回しにならずに対応していくことが出来るかを考えていく必要があるのではないかと思っています。
Y.M:もちろん、こちらも100%の配慮は求めていません。障がい者に対して、どう接したらいいのか分からないという人も少なくないと思います。特別なことではなく、ただ少し話しを聞いてくれるだけでも、ありがたいです。
矢嶋:そうですね。もしも次に大きな震災が来たとして、私たち自身が防災対策を事前に取っておくことも必要だと思いますが、私たちのような困り事を抱えている人が、少しでもいることを知ってもらえたらと思います。「何かできることはありませんか?」この一言だけで、救われるような気がします。
■ゼネラルパートナーズ社が行った障がい者への防災に関する意識調査の結果はこちら
被災地支援物産展と地域防災、あきる野市で
5月19―20日に東京都あきる野市で被災地復興支援イベントが開かれた。発起人のあきる野市・陽向寺の鈴木暢(とおる)住職は2011年以降、同門の仲間と災害ボランティアチーム「臨坊」を結成、各地で重機操縦や犠牲者の慰霊などに関わってきた。今回も震災風化の防止と経験の共有、そして地域防災への意識向上を主眼に置いた。(文・写真=福地 波宇郎)
19日には東日本大震災や熊本地震、北部九州豪雨などの被災5県などがブースを出展、「買って応援、食べて応援物産展」があきる野広場で開かれ、会場には各地の物産を求める人たちで賑わいを見せた。「九州での災害がこんなに広範囲だとは知らなかった」と訪れた70代の女性は語り、熊本の特産品を手にしていた。
翌20日にはあきる野市・地蔵院で「地域防災を考える講演会、熊本地震から2年-現地の今は」を開催、100席の会場は満席となった。
南阿蘇の老舗旅館、「地獄温泉・清風荘」社長の河津誠さん(55)と二人の弟が登壇、地震と土石流の被害を受けたときの様子を伝え、「うちの再開はまだでも、阿蘇の8割の観光施設やレストランは元に戻っています、どうぞ南阿蘇に遊びに来てください」と語った。地域全体の復興を目指して旅館の復活にも奮闘している。復活を果たしたら老後はこの経験を各地に伝えていきたいとの思いも語った。
震災後、キャンパスを南阿蘇から移転した東海大学農学部の学生ボランティア団体、「阿蘇の灯(あかり)」からも2名が登壇。代表の四年生、林風笑(かざえ)さんは被災時にアパートが倒壊、九死に一生を得た。「美しい自然と人間関係にあふれた学生村があった大好きな阿蘇黒川地区にもう一度キャンパスを戻したい」と気持ちを訴えた。
学生たちも代が入れ替わり、後輩たちは震災も阿蘇のキャンパスも知らない。仲間を失った悲しみや被災時のつらい思い出を乗り越えながら、後輩や全国の人たちへ「語り部」として震災を風化させず、思いを伝えていく活動を行っている。
あきる野市と近隣2地区の合計人口は約10万人。そこに配備されている救急車は3台しかない、と鈴木住職は聴衆に語りかけた。共催した災害支援NPO OPEN JAPANの肥田浩さんも日本各地での活動経験から地域コミュニティの重要性を説いた。
首都直下・南海トラフ地震の予測がニュースにも上がる昨今、都市部での大規模災害が起きたときにまずは自分の命は自分で守り、近隣の人々はそれぞれに助け合わねば災害直後の状況を乗り越えることはできないのが現実だ。
各地での被災経験をつなぎながら、「次の災害は必ずやってくる」と備えることの大切さを訴える会となった。